グイノ・ジェラール神父の説教



C年

年間第25主日から

王であるキリストの祭日まで




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王であるキリストの祭日



         年間第25主日C年   2016918日   クイノ・ジェラール神父

                アモス 8,4-7   1テモテ 2,1-8  ルカ 16,1-13

   神の国について話す時、その国は私たちの間にあるとイエスがはっきり教えています。というのは、神の国は私たちの日常生活の心配事から遠く離れてはいません。 神の国は私たちの具体的な問題に結び付いています。 それはお金の問題であっても。 そう言う訳で、神の国を語るときイエスはわざと無くした一枚の銀貨を見つけた女の喜び、迷い出た一匹の羊を肩に乗せて帰って来る羊飼いの喜びについて語ります。 また、仕事、失業、職を探す人、健康、遺産、借金、お金の使い方というような人間の日常の心配事のすべてがイエスの教えの中に溢れています。

  今日の朗読は適切に管理されていない富の危険と、お金が生み出す濫用について忠告します。 昔、預言者アモスの時代に既に当時の金持ちたちと貧しい人、困っている人を支配する人々を批判した時、彼は同じ問題を確認していました。 人間の言葉と同じようにお金は二つの断定的な力を持っています。 と言うのは、お金が生活環境をより良くすることができると同時に、人生を非常に困難な状況に陥らせることもできます。 また、お金が希望を与えることができると同時に、絶望を与え自殺にまで追いやることもできます。 そのためイエスはお金が「不正にまみれた富」であると断言しました。

  キリストの受難の数日前に、ある女がイエスの頭の上に非常に高価なナルドの香油を注いだので、イスカリオテのユダは厳しく批判しました。 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12,5)と。 数日後、ユダは三十デナリオンを受けました。 しかし、そのお金は貧しい人々に施すためではなく、イエスを死に導くためでした。 やはりお金は不正にまみれた富です。

  お金と富を蔵や金庫に積めば積むほど、人々の間に良い関係を結ぶことはできません。 今日の分かりにくいたとえ話を通して、周囲にいる人々と共に、私たちが信頼を生み出す強くて親しい関係を結ぶようにイエスは誘います。 模範として見せられた、悪賢い管理人はご主人の富を使いながら 新しい人間関係を上手に作って、彼は主人の客たちを自分の個人的な友とするのです。 反対に自分の財布とポケットだけを満たすようにお金が使われた時に、お金と富は悪い僕によって土に埋め込んだ一枚のタラントン(参照:マタイ25,24)のように役に立たたず、利益を生み出せないものとなるだけです。

  全人類を豊かにし変化させるよりも、自分だけが金持ちになることを目的するという考え違いをイエスは特に咎めます。 「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16,13)とイエスは忠告します。 ご存知のように世界中のお金の使い方は、イエスが望んだ全人類を立て直し、正しく教育するという目標にはまだ到達していません。 世界の富は、今までも、これからもずっと強欲、嫉妬、暴力、戦争などを生み出すだけです。

  しかし、希望を失う必要はありません。 なぜなら、世界中に分かち合い、助け合い、いつくしみと憐れみを具体的に示す人々がいるからです。 神の国は確かに私たちの間にあり、毎日私たちはそれを形作り続けるように務めなければなりません。 それには先ず、自分が属する小教区を助けるために要求されている維持費を正直に、真面目に各自に合った適切な金額を納めることから始まります。 「忠実な良い僕。 よくやった。 お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25,21)というイエスのお誉めの言葉がきちんと教会の維持費を納める人々に言われるように私は祈っております。 アーメン。



   年間第26主日C年     2016925日    グイノ・ジェラール神父

       アモス6,14-7   1テモテ6,11-16      ルカ16,19-31

  預言者アモスは、貧しい人の惨めさに対する、金持ちの無頓着で贅沢な生き方を厳しく批判しています。 安全な生き方で満足する人々に、預言者アモスは次のように宣言します。 「不幸だ、安逸にしている人々…不幸だ、寝台に横たわり長椅子に寝そべって酒宴を楽しんでいる人が必ず消える」と。 貧しいラザロのたとえ話を通して、イエスは預言者アモスのメッセージを繰り返します。 確かに富によって人は盲目的で無責任な者になる危険性があると、イエスは忠告します。

   イエスはすでに、同じ教えを違うときにしていました。 「その日まで、人々は食べたり飲んだりめとったり嫁いだりしていた 」(マタイ24,38-39)と。 しかし、これらのことは罪になりません。 なぜなら、生き残るためにとても必要なことですから。 しかし、イエスは「人々が何も気がつかなかった」と加えました。 これこそ根本的な罪です。 神と人々を忘れてしまって生きることこそ、無意識状態に陥ることです。 神のことを考えずに、他の人のことも気がつかずに生きている人の人生は、無秩序で土台のない、実を結べない人生です。

   たとえ話の金持ちは、特に悪いことはしていません。 しかし、ただ自分の中に閉じこもっている人です。 彼は自分の家の門の前がどうなっているかも知らず、自分の心の中に他の人に対する共感を育てていません。 しかし、私たちが知っているように、他の人のニーズについて心を開くことこそ、この世で、また次の世でも豊かに生きる保証です。 と言うのは、永遠の命が既にこの世で始まっているからです。 私たちの地上の生き方は、永遠に生きるための学びです。 私たちが対話と兄弟的な分かち合い、お互いの助けと他の人の苦しみに耳を傾けることによって、私たちは既に神の永遠の内に入っているのです。

  かえって、もし安全性と尊敬をもたらす物質的な物と富を自分の人生の土台とするなら、人は自分と他の人々との間で、分離と乗り越えられない距離を作りあげます。 見ること、赦すこと、分かち合うこと、慰めることの否定は、必ず自分と他の人々との間で乗り越えられない淵と登れない隔たりの壁を作ります。 時間の流れと共に、この淵と壁は、永遠に乗り越えられないものになるとキリストが教えています。

  ですから、私たちの目と心が閉じこもることのないように気をつけましょう。 テロの行い、非常に目立つ移民の動き、そして戦争の多い今の時代は、自分の安全を守るためにそれらの多過ぎる問題に対して、無関心になったり、知らん顔をするように私たちを引きこもらせます。 また、最近自然の災いがあまりにも頻繁に起こるので、困っている人を助けるための私たちの寛大さにブレーキをかけています。 確かに困っている人々を助けるために私たちが何をしたら良いのか、あるいは悪いのかを区別することが難しくなりました。

  世界の惨めさに対して、助けを与える方法が非常に複雑です。 しかし、私たちはそれに対して無関心な人となってはいけません。 「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(1ヨハネ3,17)、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハネ4,20)と聖ヨハネは教えています。 キリスト者である私たちは「モーゼと預言者の教え」、さらにキリストの教えも受けているので、信仰の目で全てを見、目覚めている人として無関心を避けなければなりません。 私たちの目がずっと開かれるように、また、私たちの心が愛で燃えるように、さらに助けを願う人に対して私たちが手を差し伸べるように、イエスは豊かに私たちに聖霊を与えて下さいました。 アーメン。


      年間第27主日 C年  2016102日   グイノ・ジェラール神父

       ハバクク 1,2-3, 2,2-4   2テモテ1,6-8,13-14   ルカ 17,5-10

 良い僕として預言者ハバククは、自分の心から湧き出る苦しみの嘆きを神に聞かせます。 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに…どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。 暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている」と。 信仰を持っているからといって、全てが楽になる訳ではありません。 しかし信仰を持っている人は、神と全ての出来事を結びつけるように気を配っています。 神と結んだ絆が真実であればあるほど、この絆はたびたび苦しみの叫びとして表現されるのです。 このようにダビデ王、預言者エレミヤそしてヨナはずっと神に絶え間ない悲しい気持ちを表す哀歌と嘆きの声を聞かせます。

 この嘆きに対する神の答えは、いつも信頼を示す強い招きです。 しかしこの信頼は正義と忠実さを土台としなければなりません。 「正しい人はその誠実によって生きる」(フランシスコ会訳)と神は断言します。 預言者たちも、私たちも神に向かって叫ぶことができますが、それを正義と忠実さのうちに行うべきです。 つまり、大勢の人々に代わって私たちは、真心から執り成すべきです。 聖霊の助けによって正しく行うために、どのようにしたら良いかを聖パウロはテモテへの手紙の中で教えています。 信仰のうちに深い根を下ろすために、またキリストのように愛するために、忍耐と力を与える聖霊の助けが必要です。 「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と聖パウロは勧めています。 なぜなら、信仰を清めるために試練が必要ですから。

 私たちは素朴で忠実な僕であるように、今日のルカ福音が要求しています。 こういう条件で、聖霊は私たちのうちに自由に働き、そして私たちの信仰を養い強めることができます。 確かに、信仰のうちに示されている私たちの愛と奉仕の行いは、つつましい振る舞いでさえ、聖霊の助けによって無理と思われたことを可能にします。 しかしながら、謙遜の態度を保つために、「わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです」と言うキリストの言葉を、何回も、自分自身に聞かせることが必要です。

 また、具体的な物事を通して、私たちが自分の信仰を強めることをイエスは願っています。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう』とイエスは教えています。 自分の信仰をしっかり保つことこそ、イエスが全てのキリスト者に願っている務めです。 私たち一人ひとりは誰であっても物事を変える事、そして支配する事ができるとイエスは教えています。 確かに、神がなさったように、信仰のある人はこの世界を変化させ、また大自然の決められた定めを換えることによって、その人は新しい世界の創造に与ることができるとイエスは教えています。

 「自分に頼まれたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と。 信仰のある人とは、人間が使う力と様々な才能は神からいただいた恵みであることを謙遜に認める人です。 私たちは皆、神の愛する子供であると同時に、取るに足りない僕でもあるので、神に対して忠実であることが要求されています。 なぜなら、キリストが示したように、信じる人は従順と謙遜を示すべきですから。 そう言う訳で、私たちは、イエスと共に、「神のみ旨が天に行われているように地にも行われるように」願って祈り続けます。

 命を与え、全てを新たにする父なる神のレベルに、信仰は人を引き上げます。 人が洗礼の秘跡によって受け入れる信仰は、神ご自身の賜物です。 信仰は私たちに神が持っている全てのものを与えました。 ですから、謙遜に、忠実で、良い僕として、受けた素晴らしい賜物や恵みのために神に感謝しましょう。 更に、世界に広がっている教会や全てのキリスト者と一緒に、神の子供として私たちを生かしている信仰を、喜びのうちに宣言しましょう。 アーメン。


         年間第28主日C年   2016109日   グイノ・ジェラール神父

              列王記下 5,14-17   2テモテ 2,8-13   ルカ17,11-19

  体の健康の回復を受けたい人に、神は難しいことを望みません。 まず病気の人は自分の病気を認めてから、誰かの助けを願わなければなりません。 七回ヨルダン川の水に入って自分の体を浸すことや、エルサレムの祭司から体の健康の回復の証明書を受けることは、とても簡単にできることです。 しかし、癒しの恵みが働き始めるのは、人が言われた言葉に対して従順の態度を示し始める時です。 完全な回復を受けるためには、いつも完全な従順が要求されています。 そしてこの従順は、神に「感謝する信仰」と同時に「救う信仰」を生み出します。

  生きる希望を持って、同じ病気によって親密に一致している十人の病者を、今日の福音は私たちに見せています。 彼らは不潔な者なので遠く離れた所から、イエスに向かって一つの声を上げ叫びます。 「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。 不思議なことですが、同じ病気で一致していた彼らは健康になってからは離ればなれになりました。 サマリア人だけがイエスのそばに戻って来ましたが、その間に他の九人は健康の回復の証明書を受けるためにエルサレムを目指して祭司の所へ行ってしまいます。 なぜなら、この証明書のおかげで彼らは自分の故郷に戻ることや、家族と共にもう一度暮らすこともできるからです。

   神に感謝しながら、元気になり清くなって、喜びに溢れた心で、今度こそもっと近くでイエスに出会うために、サマリア人は大急ぎで戻って来ました。 残念ですが病気のせいで不潔な状態であった時と同じように、サマリア人以外の他の九人は、元気になってもイエスのところに近寄らずに、もっと遠い所へ行ってしまいました。 イエスは非常にびっくりします。「清くされたのは十人ではなかったか。 他の九人はどこにいるのか」と。

  もっと驚くことは、イエスが戻って来たサマリア人に断言する言葉です。 「あなたの信仰があなたを救った」と。 たしかに、十人はイエスの助けを願った時に自分たちの信仰を表わしました。 また律法の定められた掟に従って、祭司の所に行った九人は信仰に生きることをはっきりと示しています。 モーゼの律法とイエスが願ったことに従順であり、また自分たちの良心に従って行動することによって、この九人は信仰を表わしています。 しかし、この種類の信仰は「救う信仰」ではありません。 なぜなら、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスはサマリア人だけに言われたからです。 このサマリア人は宗教的な行いをしませんでした。 しかし、体の回復を受けた途端、彼は直ぐ神を賛美します。 イエスのうちに彼は神の救いを認めたので、彼は直ぐ神と一致させられて、「救う信仰」を受け入れました。 その理由で賛美と感謝の言葉は彼の心と口から溢れて湧き出ます。

   救われるために神を賛美することは肝心です。 神の賜物である信仰は、人の心に偉大な希望を注ぎながら、その人を動かします。 イエスは自分の前でひれ伏したサマリア人を立ち上がらせて、直ぐ彼を遣わします。 「立ち上がって、行きなさい。 あなたのために、またあなたと九人の仲間に神がなさったことを大勢の人に宣べ伝えなさい。 さあ、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った」と。

   「救う信仰」を持っている人は、必ず「イエス・キリストが私たちの救い主である」ことを宣言します。 この信仰を受けた私たちも神を賛美し、神に感謝しながら イエス・キリストは見えない神の目に見えるみ顔だと宣言します。 また、主イエスによって父なる神の方へ私たちが導かれていることを証しします。 さらに、イエスを通して、いつくしみの泉である神は私たちの罪を赦し、悪と死から私たちを救うことを、私たちの賛美と感謝の歌が宣言します。 「救う信仰」は私たちに偉大な希望を与えると同時に、神ご自身の命に与らせます。

  ですから、シリヤ人ナアマンと福音のサマリア人のように、神に感謝と賛美を捧げることを忘れないようにしましょう。 命の賜物のために、健康と信仰の恵みのために、住んでいる家と家庭の一致のために、恵まれた良い友達と仕事のためにも、等など、絶えず神に感謝しましょう。

   聖パウロが勧めているように「イエス・キリストのことを思い起こしましょう」。 キリストを思い出すだけではなく、私たちの生涯にわたって神がなさったことを思い起こすことによって、人は自分の内に賛美と感謝をする心を作りあげるからです。 ですから、賛美と感謝を捧げるために、たびたび、神のそばに近寄りましょう。 そうすれば、自分たちの内に「救う信仰」を守り、養い、強めることができるでしょう。 アーメン。


        年間第29主日C年   20161016日    グイノ・ジェラール神父

                出エジプト17,8-13  2テモテ3,14-4,2  ルカ18,1-8

   たとえ話の裁判官のように、神は裏工作を許せないお方であり、どんな話し合いも人から操られることを断るお方です。 ですから、人は真心から祈っても決して強制的に神を自分の側にすることができません。 従って私たちは、たとえ話の貧しいやもめのように、なかなか開けられないドアを無理に叩いている人です。 真心から捧げた祈りに対する、耳の聞こえない神の沈黙が私たちを惑わせます。

   問題は私たちが、神が私たちの僕ではないことを、忘れがちです。 祈りは、まず礼拝の態度です。 そして謙遜と信頼の行いです。 祈りに次のような条件を付けてはいけません。 「主よ、もしあなたに願っている恵みを与えてくださるなら、私はあなたのためにこんなことをします」と。 祈りが叶えられるためには、条件なしで、無償で、謙遜が溢れる感謝の行いでなければなりません。 私たちの祈願の祈りが、感謝と賛美に包まれているなら、神の心を動かすことができます。 しかし、神がこの祈りに応えるかどうかは、全く神の自由です。 感謝と賛美に溢れているダビデ王の詩篇が、それを具体的に私たちに教えています。

   賛美の祈りに神は素早く応えます。 「神は速やかに私たちのために裁いてくださる」とイエスは教えています。 神は急いで私たちの願いに応えますが、私たちが願ったことを受けるためには時間がかかるのです。 山の頂で祈るモーセが、この重大なことを悟らせます。 と言うのは、モーセが手を上げて祈り続けている間に、神はヨシュアに敵に対する勝利を早めに与えますが、それでも戦いは一日中かかります。 腕が重くなって疲れ果てたモーセは祈り続け、ヨシュアは諦めずにイスラエルの敵と戦っているので、神は速やかにイスラエルの民に勝利を与えてくださいます。 しかしこの勝利は、モーセとヨシュアの連係プレーでした。 望まれたものを与えるために、神はいつも人の協力を必要とすることを忘れないようにしましょう。 直接に天から何も落ちてきません。 助けを受ける人は神を助けなければならないからです。

   「主はお前の足を堅く立て、まどろむことなく守られる、イスラエルを守る方はねむることも、まどろむこともない」(参照:詩編121,3-4)と言う今日の詩篇の言葉を思い出しましょう。 手を上げて祈るモーセの姿は、十字架に付けられたキリストの姿を前もって表しています。 もう力がない、何もできないイエスは、十字架の上で手を広げたままで、イスラエルを見守る父なる神の正義の現れを願っています。 神は助けに急ぎますが、キリストの復活が明らかになるように、つまり罪と死に打ち勝ったイエスの勝利が明らかになるように、六時間の激痛と三日間の死の暗闇が必要でした。

  「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言うことについて、私たちが考えるようにイエスは誘います。 なぜなら、諦めずに祈ることは肝心ですから。 絶えず祈ることは長い祈りを捧げること、あるいは祈りの数を増やすことではなく、かえって自分の内に休みなく祈る心を作ることです。 言い換えれば、祈りは呼吸のようなものにならなければなりません。

   ただ、私たちのうちに祈り続ける聖霊だけが、絶えることのない祈り方の恵みを与えてくださいます。 神の直ぐそばでキリストと聖霊は執り成しています。 それは私たちの祈りが神の心を動かしながら、いつくしみと憐れみが私たちに早めに与えられるためです。 神に何を願う必要があるかを、聖霊とキリストはよくご存知です。 従って、私たちが神に何かを願う前に、聖霊とキリストの執り成しを願うことを忘れないようにしましょう。 私たちのうちで祈る聖霊に揺るぎない信頼を示すなら、摂理を通して神はいつも私たちの願いを叶えてくださったことをきっと喜びのうちに悟るでしょう。 アーメン。


         年間第30主日C年  20161023日   グイノ・ジェラール神父

          シラ書35,12-14,16-18    2テモテ4,6-8,16-18    ルカ18,9-14

  今日のたとえ話を通して、全てを正しくする神に対して、私たちの全てをおくようにイエスは誘います。 しかし、一体神の目には、誰が正しく、誰が正しくないのでしょうか。 語られたたとえ話によれば、徴税人の人は自分を正当化しません。 彼は自分を正しくする神の赦ししか願っていません。 逆に、ファリザイ派の人は、律法をきちんと行っているので、自分に咎めることがないと思い込んでいて、自分を正当化します。 彼の祈りは、自分一人で何でもできるので、神の助けが全くいらない人であることを表します。 このファリザイ派の人が待っているのは、天からの報いだけです。

  一目見たところでは、聖パウロは友のテモテの前で自分を正当化した時、このたとえ話のファリザイ派の人によく似ています。 実際に聖パウロはファリザイ派の人であり、ファリザイ派の息子である自分を正しくします。 「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」と聖パウロは自慢します。 しかし、そのすぐ後、聖パウロは何事も神のお陰でできたことを証しします。 「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」と。 なぜなら、神の助けなしには、自分の使命を果たすことが無理だったと、聖パウロはよく知っているからです。

  さらに、マリアの賛歌(参照:ルカ1,46-56)の祈りも、奇妙にファリザイ派の人の祈りに似ています。 まず、マリアは他の女たちの「ようなものではないことを」認めます。 また、天使の教えによって自分が神の恵みで満たされていることも知っています。 「今から後、全ての人もわたし幸せな者と言うでしょう。 主はわたしに偉大なことをなさいましたから」とマリアは神に感謝します。 たとえ話のファリザイ派の人は、自分が全ての恵みを持っていることを主張しません。 しかし、彼も受けた恵みのために神に感謝します。 それにも関わらずマリアは義とされているのに、ファリザイ派の人は神の前で義とされていません。 なぜなら、彼は自分の徳や賜物を利用しながら他の人々と自分を比較したからです。 逆に、マリアは人々に奉仕するために自分の恵みを使って他の人に尽くすからです。 ファリザイ派の人は高慢でうめぼれていますが、恵まれているマリアは謙遜な態度を保っています。

  さて、ファリザイ派の人や聖パウロやマリアと違って、徴税人の人は神のいつくしみに自分自身を差し出し、神に見せるものは自分の罪だけです。 彼の心から立ち上る祈りは、深い信頼の叫びであり、罪の告白と同時に神に助けを呼び求める叫びです。 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。 この短い祈りのお陰で、神のいつくしみは彼の心の傷を癒すと同時に彼を義としました。

  私たちは皆、ファリザイ派の人であり、また徴税人でもあります。 いくら忠実に教会で自分の信仰を正しく養っていても、私たちは絶えず回心することが必要な務めです。 聖パウロのように、私たちが上手にできたことは、神の恵みと助けによって実現できたことを謙遜に認めなければなりません。 誰であろうと私たちは皆、神のいつくしみを非常に必要とすることも認めましょう。

 今日のたとえ話はまた、人間の正義は必ずしも神の正義ではない事実を思い起こさせます。 聖ヨハネが教えたことを私たちは強く信じています。 つまり「心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも偉大です」(1ヨハネ 3,20)。 いつくしみの特別聖年に当たって、たとえ話の徴税人の祈りの言葉を自分たちのものにしましょう。 そして揺るぎない信頼をもって、謙遜に神に向かって叫びましょう。 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。 アーメン。


     年間第31主日C年  20161030日    グイノ・ジェラール神父

          知恵 11,23-12,2  2テサロニケ1,11-2,2  ルカ 19,1-10

  「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスは断言しました。 聖書がずっと宣べている救いを実現するために、神は人間になられたのですが、この救いとは一体どんなものでしょうか。 確かに信仰宣言(ニケア・コンスタンティノープル信条)が、それを教えています。 「主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました」と。 この世に来られたイエスは、私たちを救うためにご自分の命を捧げ、ご自分の血を流されました。

 救いは、信仰の内に人が受け止めるべき神の賜物です。 「もしあなたが神の賜物を知っていたら」(ヨハネ4,10)とイエスはサマリアの女に、そして私たち一人ひとりに向かって言っています。 救いは決して私たちの努力の結果ではありません。 救いは神の無償の賜物であり、イエス・キリスト自身です。 木に登って木の幹にしがみついたザアカイをイエスが見上げたからこそ、救いがザアカイの家に訪れました。 イエスはザアカイの家に泊まりたかったからこそ、救いが彼の家に入りました。 イエスこそが、神が全人類に与えてくださった救いです。 イエスは私たちに示された神の愛の無償の賜物です。 イエスは私たちの上に神の慈しみと共に、心と眼差しと知恵の3つの回心の恵みを引き寄せる唯一の救いです。

 良い業と善行によって、自分の過ちを償おうとするザアカイの決意は、決して自分に与えられた救いの恵みに先立っていません。 逆に善行を行おうとするザアカイの望みが、彼が受けた救いから湧き出ました。 ザアカイは「救いの泉」であるイエスを歓迎したからこそ、彼は新しい生き方を考えるようになり、そして回心することを決意しました。 イエスを見ようというザアカイの望みが叶えられたので、この時以来、ザアカイもエルサレムの神殿の年寄りのシメオンと同じように次のように言えるでしょう。 「主よ、今こそわたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2,30-32)と。

 神の救いは、それを受ける人のうちに必ず完全な変化を行います。 そして個人的に受けたこの救いは、全人類の救いに貢献します。 なぜなら個人的に一人ひとりを救うことによって、イエスは私たちを世の救いの協力者とするからです。 罪のせいで傷ついているこの世界を新たにするために、そして贖われたこの世界を父なる神に捧げるために、イエスは来られました。 イエスだけが唯一の救い主です。 ほかの救いを待つことは必要ではありません。

 「わたしは、失われたものを捜して救うために来たのです」とイエスは言っています。 ザアカイが失ったものは 他の人々との人間関係でした。 徴税人の頭でローマ人の協力者として、ザアカイは皆から憎まれていました。 その上、背が低いという不利な条件のせいでザアカイは笑い者となっていました。 しかし、イエスの誘いを承諾することでザアカイは大きな喜びを受けました。 「ザアカイは喜んでイエスを迎えた」と聖ルカが証しをしています。 ザアカイが救われた理由は、彼がイエスと親密な人間関係を結ぶことに同意したからです。 自分を批判せず、自分を馬鹿にせず、人は自分と話し合うことができることを発見したザアカイは、新しい人となりました。 その結果、貧しい人々やだました可能性のある人々と正しい人間関係を結ぼうと彼はすぐ考え始めました。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

 これを聞いて「この人もアブラハムの子なのです」とイエスはすぐ断言しました。 ザアカイは、何も知らずに自分の家に神ご自身を歓迎しました。 それはちょうど、昔アブラハムが、マムレの樫の木の下で不思議な三人の旅人を通して、神を歓迎した(参照:創世記18,1-15)のと同じです。 昔アブラハムに対してしたように、神であるイエスは親密にザアカイと話しました。 イエスの言葉を受けたザアカイは「自分が神から必要とされ、愛され、赦されている」と深く感じました。 そして、特に、皆と一緒に信頼と尊敬、更に分かち合いの内に生きるようにイエスに召されている事もザアカイはよく解りました。 今日、イエスは私たち皆に、まさに同じことを要求しています。 アーメン。


       年間第32主日C年   2016116日   グイノ・ジェラール神父

        2マカバイ記7,1-29-14  2テサロニケ2,16-3,5  ルカ 20,27-38

   現代では、世界中でイエスにおける信仰のためにキリスト者が迫害されている事実を今日の第一の朗読が思い起こさせます。 この頃、他の時代よりも、キリスト者に対する迫害は血にまみれた高いレベルに立っています。 そのために「わたしたちが偏見をもつ悪人どもから解き放たれるように祈ってください」という聖パウロの勧めは現代的であり、適切ではないでしょうか。 イスラム教の原理主義者を増加させるテロ事件に対して、私たちは益々彼らと彼らの犠牲者のために祈るように気を配りましょう。

  愛を持って神が創造されたものを破壊しようと、世の初めから暴力が働いています。 この暴力は同時に、人間と大自然に由来しています。 これらは戦争、地震、台風、洪水、飢饉、干ばつ、火山の噴火、疫病などです。 それにも拘らず、聖パウロと共に私たちは次のことを宣言し続けます。 即ち「主によって確信します。 主はわたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望を与えてくださいます。 主はわたしたちに神の愛とキリストを待ち望む忍耐へと導いてくださいます」(参照:2テサロニケ2,163,4-5)。

  いつも思いがけない出来事が急に現れるので、生きるとは確かに容易ではありません。 しかしイエスこそが私たちの揺るぎない支えです。 なぜなら、「世の終わりまで、毎日イエスが一緒にとどまる」(参照:マタイ28,20)ことを、約束をしてくださったからです。 ですから、悲劇的な出来事は、豊かに溢れる命と愛の泉に変化することを深く信じましょう。 死の中から神は命を取り出すことができると私たちはよく知っています。  私たちは復活を信じ、イエスご自身が「復活であり、命である」(ヨハネ11,25)ことを信じています。

  実際に、主イエスの復活は、死の力とあらゆる種類の暴力よりも強い希望を私たちに与えています。 亡くなられた全ての兄弟姉妹のために11月の初めに祈りました。 私たちに先立って眠りについた方々を思い起こし、ご自分の栄光と平和のうちに私たちを入らせるキリストの到来を彼らと共に待ち望んでいます。 キリストの到来は、全人類を永遠に罪と死の支配から救いながら、神のうちに命の充満を私たちに与えることを信じて宣言しています。

 復活は、神の愛は死よりも強く、それに打ち勝つ明らかな証拠です。 神の愛は本当にあらゆる種類の悪から私たちを救います。 神はキリストの復活によって、死の支配と共に死をもたらした罪の支配を終わらせました。 イエスは神の愛の啓示であり、イエスは命と復活であります。 キリストの命は、命をより豊かに新たにし、完成します。 また、イエスの命は、私たちの体にご自分の栄光と聖性を与えるのです。 ですから、永遠に続く終わりのないこの幸福に与るための最も良い準備として、神を益々知り、愛することを学びましょう。

 更に、キリストへの信仰によって私たちが受けた永遠の命の恵みを、日毎に神に感謝することも忘れないようにしましょう。 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの父である神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。 全ての人は、神によって生きているからです」。 何事も恐れずに、喜びをもって自分たちの信仰を宣言しながら、神の命が私たちの生き方に現れるように強く望みましょう。 全ての天使と全ての聖人と共に、永遠に神のうちに生きる希望を育てましょう。 アーメン。


        年間第33主日C年   20161113日    グイノ・ジェラール神父

            マラキア3,19-20  2テサロニケ3,7-12  ルカ 21,5-19

  人間性の不安定さと弱さのために、私たちは確実な目標と安定した土台を探し求めています。 そこですべての偽予言者や占い師は、安全性への人間の飢えと渇きを利用して、自分たちの偽りを確実性があるかのように提案します。 あらゆる時代にわたって、人生の問題の解決や平和を約束するこのような偽予言者は、自分の周りに群集を引き寄せることがとても上手です。 「彼らについて行ってはならない」とイエスは忠告します。 なぜなら彼らは新しい弟子を作るために、人間の不安に新しい恐怖と苦悩を加える事しか知らない人だからです。

 イエスだけが恐怖と苦悩から私たちを実際に救います。 そういう訳で、イエスはすべての時代に役に立つ三つの勧めを私たちに与えます。 「メシヤはここにいる」とか、「世の終わりが近い」とかと言う人々に「惑わされないように」私たちは先ず、明晰な精神、即ち騙されない自分を保つ必要があります。 いつも賢明な態度を見せましょう。 「その日、その時は、知らない」(参照:マタイ24,36とマルコ 13,33)と、イエスは忠告しましたから。 キリストが直ぐ戻ってくると信じていた聖パウロは意見を変えました。 テサロニケの信徒への手紙の中で、彼は「少しも働かず、余計なことをしていて」イエスをずっと待っている人々を厳しく批判します。 ですから、偽りの予言や説明によって惑わされないように、澄んだ精神で、信仰の内に目覚めて、日ごとの仕事を果たしましょう。

 イエスは次に「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」と勧めています。来るべき試練に対してこのはっきりした生き方は、勇気と忍耐を要求します。「戦争、地震、疫病、事故」という名を借りている試練によって、私たちは決して勇気と希望を失ってはいけません。 あらゆる時代にキリスト者があざ笑い者とされ、理解されず侮辱され迫害を受けました。 そのために、イエスは私たちに忍耐と勇気を勧めています。 ご存じのように、大勢の人は試練を前にして希望を失い、また信仰の支えを失います。

 イエスの最後の勧めは「何も恐れないで」という励ましです。 イエスは毎日、世の終わりまで一緒に居るという確信を私たちは受けました。 私たちの名が愛のうちに刻まれている神の手の中に、私たちは安全に置かれています。 イエスは個人的に私たちと自分の教会と一致しています。 私たちの弱さ、裏切り、不忠実さにも拘らずイエスは私たちを守り、救うために一緒に留まります。

 確かに、イエスは世の終わりまで私たちと一緒に留まるのは、この世に終わりと目的があるからです。 イエス・キリストのお蔭で、神の愛と栄光ある国を私たちに与える父なる神のところへ行く事を、私たちはよく知っています。 もし私たちが騙されない明晰な精神を保ち、勇気と忍耐を示して生きるなら、或いはまた、生きるために私たちに残っている時を揺るぎない希望のうちに生きるなら、私たちの人生の栄光の目的と意味が公に啓示され、現れるでしょう。 父なる神の方へ導くために、私たちを支え助けるイエスは「道、真理、命」(参照:ヨハネ14,6)として世の終わりまで、毎日、一緒に留まっています。 アーメン。


        王であるキリストの祭日C年  20161120日 グイノ・ジェラール神父

             2サムエル5,1-3    コロサイ1,12-20   ルカ21,35-43

  いつくしみの特別聖年が終わると、私たちが王であるキリストの顔を仰ぎ見るように今日の典礼は提案しています。 イエスは私たちの人生の終焉だけではなく、全世界の歴史の終わりでもあります。 この世界には始まりがあり、そしてまた絶えず進化しながら必ず終わりの時に向かっています。 しかし、この世界は完全な滅びを迎えるのではなく、むしろ、神の愛といつくしみと赦しのうちに完成を迎えることを私たちは自覚しなければなりません。

 この「完成」というのは「すべてにおいてすべてになられる」(1コリント15,28)キリスト自身だと、信仰は私たちに教えています。 この神秘は特に創造されたものに対する神の愛の計画と、人間になったイエスの事実と密接に繋がっています。 世の初めから神はすべてをご自分の子イエスにおいて完成することを決めました。 「天にあるものも地にあるものも、万物は御子において、御子のために作られました…御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と聖パウロは、コロサイの信徒への手紙を通して私たちに思い起こさせます。

  私たちの人生の意味を理解するために、私たちは先ずその人生の目的を目指すことが肝心です。 この目的とは宇宙万物の王であり、悪と死に打ち勝ったキリストのみ顔を仰ぎ見ることです。 イエスは目に見えない父なる神の目に見えるみ顔です。 しかし私たちは、どこでこのみ顔を見る事ができるでしょうか。 ご存じのように、神のみ言葉のうちにイエスのみ顔を見つけ、そして教会の秘蹟のうちに、特に聖体とミサ祭儀の秘蹟のうちにキリストを仰ぎ見ることができます。 その目的で私たちは毎日曜日にここに集まって、み言葉を聞いてのち聖体拝領を受けます。

  またイエスはご自分の教会の中に実際におられます。 即ち、信徒の共同体の中に一緒におられます。 イエスの名によって彼の言葉を聞くために集まっている信徒の間に、イエスはおられます。 恐れずに自分の信仰を証しする人々や一緒に祈ることを承諾する人々の間にもイエスはおられます。 更に、私たちが愛の絆を結んだその人々のうちにイエスはおられます。 分かち合いの行い、お見舞、あるいは単なる微笑み、また水を一杯人々に与えることによって、私たちは自分の側にイエスの現存を引き寄せます。 貧しい人や苦しんでいる人や助けを願っている人の隣人になる時に、私たちはイエスのみ顔を目の当たりに見ます。

  王であるキリストを祝うことは、彼の死と復活の神秘によって設立された神の国のために活発に働くことです。 全人類の救いのために、また私たちの永遠の幸せのためにご自分の命を捧げるイエスのみ顔を、今日特によく見ましょう。 「イエスは世の終わりまで死に瀕している」とフランス人のパスカルは言いました。 確かに、私たちの上に神のいつくしみと赦しを注ぎながら、キリストの受難は人間の歴史を通して今も続けられています。

 ですから、今日終わろうとするいつくしみの特別聖年の恵みを神に感謝しながら、神が私たちにご自分のみ顔を啓示するように願いましょう。 「み顔を示してくだされば、わたしたちは救われます」(参照:詩篇80,20)という詩篇の言葉を私たちは年間にわたって、繰り返し、繰り返し唱えました。 王であるキリストの祭日は私たちの心に大きな希望を注ぎます。 来週から私たちは待降節の時期に入ります。 それは、贖い主であり、救い主であるイエスを喜びのうちに歓迎するためです。 良い準備ができるように聖パトリックの祈りの言葉を度々自分に聞かせましょう。 それは「キリストは私と共に、キリストは私の中におられる。 キリストは私の後ろに、キリストは私の前におられる。 キリストは私の側に、キリストは私を勝たせるためにおられる。 キリストは私の下に、キリストは私の上におられる。 キリストは静寂の中に、キリストは危険の中におられる。 キリストは私を愛するすべての人の中におられる。 キリストは友人と見知らぬ人の口の中におられる」と。 アーメン。



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